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切な系100のお題>012.夕陽 |
あと一軒。たったあと一軒なのだ。 あの柵を開けて、砂利の中を少し行き、玄関に備え付けられている少し傾いた赤いポストに夕刊を入れれば、それで帰れるのだ。それは時間にして10秒足らずの容易いことなのに。 バツは悩んでいた。幾度となくあの見慣れたポストに夕刊を入れるまでをシミュレートしたが、頭は動いても足は一向に動かない。 そもそもここはバツの新聞配達ルートでは最初の方に位置するお宅だ。だが今日に限ってはバツはこの家を後回しにした。先に他を配り終えて、わざわざ引き返してきたのだ。 どうしても柵を開けられずに立ち往生しているバツの傍らを、近所のおばさんが買い物袋を下げて通っていく。辺りには夕飯のおいしそうな匂いが漂い、家路につく車の量も増えてきた。いつもと変わらない情景。世間はこんなに平和な時間が流れているのに、バツの身にだけは試練が降り懸かっていた。 「あら、バツくん?」 聞き覚えのある声に振り向くと、バツの家の隣に住んでいるおばさんが立っていた。 「こんばんは」 「アラ、新聞配達ね。感心しちゃうわあ!ウチの子なんて小遣いばかり欲しがって、家の手伝いすらしないんだから…それにこないだなんてねえ──」 話好きな人だ。バツが聞いているかどうかなんてお構いなしに、矢継ぎ早に話し続ける。ひとしきり息子や夫の愚痴とか、近所の人の噂話、今日の夕飯を何にするか決めかねているなどといった取り止めもない話を一方的に話すと、早く帰らないとと自己完結してしまった。バツは終始苦笑いを浮かべていたと思う。 「じゃあね、バツくん。おばさん行くわ」 「はい。じゃあ、また…」 「あ、ところでバツくん。さっきからずっとこの家の前に立ってたの、おばさん見てたんだけど…何かあったの?」 「い、いや、なんでもないんです。もうここに新聞入れて帰るところだっただけで…」 嘘は言っていない。 「そうお?何か用事があるのかと思っちゃったわ。そこの家の人、今日から家族でお出かけって言ってたから、しばらく帰ってこないのよ」 「そうですか。お出かけ…いいですねぇ、ハハハ…」 乾いた笑い声が虚しく響く。 「じゃあね、お母さんによろしくね」 おばさんはそう言うとサンダルを鳴らして行ってしまった。その途端、大きなため息をつくバツ。おばさんが怪訝に振り帰ったので、慌てて背筋を伸ばして苦笑いを浮かべた。 「…お出かけ…」 ぽつりとそう呟いて、いつもより随分遠くに思えるポストを睨んだ。 「…くそっ!」 ずっと握り締めてくしゃくしゃになってしまった新聞を肩掛けに突っ込み、階段に座り込んだ。今日は帰ってこないなら新聞止めておけばいいのに、などと少し膨れ面で思う。 入れずに行ってしまうなんてもってのほかだし、投げ入れるのもあんまりだ。家の人が帰ってきたり出てきたら手渡そうと思っていたが、今日は帰ってこないという。誰かに頼むなんて格好悪くて出来ない。 バツは悩んでいた。どうしてもいい考えが浮かばない。彼がここまで悩むのにはそれ相当の理由があった。 バツの背の柵が軋む。愉快そうに弾んだ息が聞こえる。バツは瞬間的に身を仰け反った。 とどのつまり、柵の向こうに犬が居るわけだ。 何の拍子か、いつもは小屋の近くに繋いでいる紐が外れてしまったようなのだ。バツにとってそれは悪夢という他なかった。犬はご機嫌のようで、遊んで貰いたそうに柵を揺らす。バツの思いなどつゆ知らず。 無邪気な犬と、不幸な勤労少年。 「つまらねぇ意地張らずに、おばさんに新聞入れてもらえば良かったかな…」 そう後悔していた頃には、夕陽の頭は町へ呑み込まれようとしていた。 |