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切な系100のお題>046.いたみ |
昨夜は“明日は冷え込みが厳しいから”と、押し入れからはんてんを引っ張り出してきた。案の定といったような寒さの朝、ピノコはあまりの寒さにいつもより早く目が覚めた。 刺すような冷たい空気に小さな体を縮こまらせながらカーテンを開ける。途端に真っ白で眩しい世界がピノコの目を覆った。 「わぁ!ゆき、雪らわよ!テエビで見たよりずーっとキエイ!先生、見てェ!」 初雪に、嬉しさのあまりぴょんぴょん跳ねながらブラック・ジャックを呼ぶ。昨日も遅くまで本を読んでいたブラック・ジャックは、返事の代わりに眉間に皺を寄せて一度寝返りを打った。 「もう、雪らってゆーのに!」 唇を尖らせてそう言うと、もう一度窓の外へ目を向けた。 一面銀世界だ。朝日が雪を照らして、きらきらと輝いている。 「今日は患者ちゃん迎えゆのに、雪らるま作っちゃおーかちら。」 楽しそうに笑いながら言うと、 「18歳のレディが雪だるまか?」 と、ブラック・ジャックが目を閉じたまま茶々を入れた。 「なんよ!起きてゆなやそー言って!18歳のレレイもかあいいもんは好きらかやいいのよさ!」 真っ赤になって反論していたピノコだが、ブラック・ジャックの堪え笑いを聞くとそっぽを向いて暖炉の部屋へ行ってしまった。 ブラック・ジャックが起きてきたのはそれから少ししてからだった。 寒い朝は朝食より先に暖炉の前に向かう。その時、暖炉の前のブラック・ジャックの椅子に掛けられたピノコの赤いはんてんが目に入った。この寒い日にはんてんを着ずに居るのだろうか?もしやさっきの当て付けだろうか?などと考えていると、玄関のドアが開いてピノコが何やら騒ぎながら部屋に入ってきた。 「ひゃー!寒い寒い!外はすっごく寒いよのさ!」 鼻の頭を赤くさせて慌てて暖炉の前に滑り込んで来るピノコ。見るとよそ行きのコート姿である。 「おまえ、コートなんか着てどこ行ってたんだ?」 「ちやない。」 「…悪かったよ、さっきのことは謝る。」 「……」 この時間に外に出るといえば毎日のやっていることだから見当はつくのだが、ここで自己完結させてしまうときっとピノコは明日の朝までむくれて口を聞いてくれない事が分かりきっていたので、敢えて聞いたことだった。 「ふふ、らんなたんを困らせゆのもたまにはいいれちょ?」 勝ち誇ったように笑うピノコに、ブラック・ジャックはようやく機嫌が治ったかと胸を撫で下ろした。 「ジャマな雪をちょっと避けて、雪らるま作って、そちて新聞持って来たわのよ。」 「掃除と雪だるま作るのによそ行きのコート着てったのか?」 「らってお外に出ゆのに、あんなはんてん姿じゃ恥ずかちいわのよ。 そえより先生、お外出たら胸がきゅーって痛くなったよのさ!ピノコ病気なの…?」 「胸が?」 言われて一応触診してみたが、特に異常は感じられなかった。少し考えて、ブラック・ジャックはああ、と声を上げた。 「そう言えばこんなに寒い日はおまえは生まれて初めてなんだな。」 「ホントの雪を見たんも初めてよのさ。冷たくっておろろいたわのよ。」 「冷たい空気を吸うと肺に痛みを感じる事があるんだ。ピノコの言ってるのは多分それだ。部屋に入ったらどうってことないだろ?」 「うん、ないわのよ。なーんら、ピノコ病気じゃないよのね!」 安堵のため息をつくと、コートからはんてんに着替え始めた。 「はんてんに着替えていいのか?急患が来たら恥ずかしいんじゃないのか?」 「こーんな雪の日にこんなとこまれ来るような患者ちゃんいないわのよ。」 とピノコが妙に自信ありげに言った途端。 「先生、助けてくれ!先生ぇ〜〜!!」 激しくドアを叩く音と共に、追い詰められたような叫び声が聞こえてきた。ブラック・ジャックはピノコの膨れた顔を一度見て、ドアへ駆けていった。 ドアを開けると、倒れ込むように中年の男性が入ってきた。額に脂汗をにじませて、苦痛に歪んだ顔でブラック・ジャックのコートにしがみついて来る。 「どうしたんだ?」 「胸が…胸が痛い…苦しいんだ!」 ヒューヒューと弱々しく息をしながら、今にも倒れそうな虚ろな目をしている。 「おじちゃん、こんな日にこんなとこまれやって来ゆかやよ。冷たい空気を吸ったらそうなゆんれすって。」 のうのうと言うピノコだが、ブラック・ジャックは男の胸に手を当てて真剣な顔をしている。 「おまえさん煙草を吸うかね?」 「…あ、あぁ、最近は…家内に言われて少なくしたが…」 「分かった。ピノコ、術式の用意だ。」 「…アッチョンブリケ!」 それからすぐにオペに入った。男は準備中もずっと息苦しさに喘いでいたが、麻酔をかけられると静かになった。 「あんなに苦ちそうでかわいちょうらったのに…麻酔で楽になったみたいよのね。」 「麻酔をかければ苦しさも痛みもなくなる。だが根本的には治っていないから一刻も早く処置をしなくてはならない。彼は肺気腫だ。」 「…肺、きちゅ…?」 「煙草を吸う人に多い病気だ。肺が拡張して組織が破壊される。ピノコ、メス。」 「はい…」 差し出されたメスを受け取るが早いかメスを入れるブラック・ジャック。 ほどなくして手術は完了した。 入院用ベッドに寝かされた患者の顔を見て、ピノコは小さなため息をついた。 少し疲労したのか、暖炉の前で静かに椅子に揺られているブラック・ジャックにピノコはおずおずと近付いていった。 「患者ちゃん、寝てたわのよ。」 「…麻酔がまだ効いているからな。今度は息苦しさより術後の痛みでうなされるかもしれんぞ。」 少し冗談めかして言ったのだが、ピノコはうん、と小さく返事をした。 「…どうした?ピノコ。」 「痛いとか、苦しいとか…人間って嫌よのね。」 「まあな…でも、その痛み苦しみから助けるために医者がいるんだ。それに、手術をする前は麻酔をするだろう?あの患者だって一時的ではあるが楽になっていたじゃないか。手術は成功したからじきに彼も良くなるさ。おまえが心配することじゃない。」 術後の少し熱を帯びたブラック・ジャックの右手が、ピノコの頭の上にぽんと乗った。ピノコはまた小さくうん、と返事をした。 「大丈夫かおまえ。疲れたんじゃないのか?また急患が来ない限り今日は予定もない、休んでおけ。」 「ちやうの。おちごとしてゆ時、ピノコいろいろ考えちゃったのよさ。本当にいろいろ…ピノコこあかったのよさ。ピノコが肺が痛かったのがほんとは肺きちゅらったや、って。れも、そちたら先生が治ちてくえゆかや、ぜ〜んぜん恐くないって思ったのよさ。れも…」 急に暗い面持ちになったかと思うと、ピノコはブラック・ジャックの顔をじっと見つめた。 「麻酔じゃ、胸が痛いの取えないよのさ。」 「どうしてだ?さっきの患者は胸が痛いのが楽になっていたじゃないか。」 「…麻酔じゃ、胸が苦ちいの治やないよのさ。」 ゆっくりと目を閉じて、ピノコは口を噤んだ。閉じられた目の上で長いまつげが震える。 「…麻酔じゃ、心が痛むの止められないよのさ…」 ブラック・ジャックの表情が、一瞬強張った。確かに図星ではあった。麻酔でもオペでも、心の痛みは止められない。 「れも、思ったのよさ。麻酔って眠っちゃうれちょ?もし麻酔で心が痛いの止められても、眠っちゃうんらったや…イヤらって思ったのよさ。」 「…ピノコ…」 「らって、先生の顔見られないし、お喋りれきないし。そえに…胸が痛くなるのも楽ちいかなって思ったのよさ!らって、そえがないとつまんないのよさ。ドキドキちて、胸が苦しくなって…そえが先生が好きって印らかや!」 言い終わるとブラック・ジャックの膝に飛び乗って抱き着いて来た。ピノコが喋り終えるまで、ピノコの言った言葉に衝撃を覚えてくらくらしていたブラック・ジャックだったが、なんともピノコらしい『オチ』にいつもの安心感を覚えて、脱力して椅子の背に凭れるのだった。 玄関前の階段の隅には、ピノコの作ったブラック・ジャック雪だるまとピノコ雪だるまが仲良く寄り添っている。それもまた、ピノコの『先生が好き』の印だった。 |
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